部分と全体

昨日は「社会デザイン学会」の年次大会ということで、少し取り組みなどの紹介をさせていただきました。私は学会メンバーではないのですが。
登壇にご一緒したのはつくろい東京ファンド稲葉 剛さんDIALOG IN THE DARK JAPAN志村季世恵さん、モデレーターは立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科教授の亀井善太郎さん。豪華!(私以外は。)

立教の社会デザイン研究科には、実はokatteの大家さんが通っていらして、それもあってお声がけいただいた次第。気づけば、地域リビングプラスワン(板橋)の井上温子さんはじめ、尊敬する実践者がたくさん。改めて学びに行くって凄いパワーだよなあ。

さて、壇上でDIDの志村さんのお話を隣で聞きながら考えていたことは、「部分と全体」ということだった。

ものの部分を見て全体を想像することは、人間の大きな能力の一つだし、日本語のコミュニケーションでは大きなウエイトを占める(流行りの?)忖度もそれ。
誰かの一面を見て、全体の人格を想像してしまうのも、同じことで、やっぱり仕方ないことなのだ。

が、それを「自制する」能力もまた、人間の大きな力で。
今見ているものは部分で、全体とは違う、って。

ただ、「自制」の機能は狂いやすくて麻痺しやすい。自律神経と同じでストレスにも弱いのかもしれない。
その機能を回復するためには、「外的刺激を少なくして」「整える」ことが大事で。
暗闇はそういうものも、回復するのかもしれない。
そんなことだった。

以前に篠原さんから借りた「目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)」という本があって、(返したっけなあ?ごめん!)ああ、やっぱり、私も全くもって見えてませんでしたーって思ったのを思い出したり。

そして、今日はこんな動画に出会う。

最近炎上?した某アルコール飲料のCMと比較されて、「海外の飲料メーカーはこんなに素敵!」みたいな文脈でバズっているようだ。

これ、「お酒飲んだから話せる」わけじゃないんだよな。
部分と全体を一旦切りはなす仕組みは、ハイネケンが出てくる前にある。
それでも何とか、お互いの話が聞けそうって思うから、お酒が飲めるわけだし。

一方、日本で「お酒を飲むとわかりある」と言われるのは、むしろ「より、言葉によらないコミュニケーションがしやすくなるように」という考えで。部分と全体を切り離すのではなくて、「全体をなるべく見ようとする」というアプローチ。よって、部分と全体は、さらにベッタリとくっついて、全人格的な付き合いになっていく。相手の部分と相手の全体だけでなくて、相手の全体と自分の全体がズルズルベッタリ。

そうやって、なるべく多くを「許容」していく懐がお互いにあってこそ成り立つのが「ノミニケーション」で、それが曲がりなりにも機能していたってことは、もともとコミュニケーションが「許容・寛容」がベースになっていたということだ。

でもまあ、そうやって「許容・寛容」な態度で、相手を待っているなんてことに忍耐を発揮する前に、他のコミュニケーション相手を探したほうが早いわけで。手元にスマホがあるから。

もうすでに、そういう世の中になっているのに、「寛容(=忍耐)」だけを取り戻そうとしても難しいのだから、やっぱり、「部分と全体を切り離す技術」は必要なのだ、と。改めて。

  1. saitoshinobu

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